自然言語景域 (2013.10)

















2013|壁面に万年筆, 長椅子(机)|インスタレーションサイズ
HANARART 2013 "アイダカラダ:inter - world - body” 堺町の家(奈良県大和郡山市)


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「自然言語景域」について
 

 いつも、作品を壁に書くときは、その場所や空間からたちあがる、景色というひとつの言語としてのあらわれを自らの言葉で汲もうと、景色そのものに寄り添い、景色そのもののつよさに平伏するような態度をしめすことがあります。

 たとえば、どこかに吹きさらしになったような建物があったとして、雨風にさらされながらもそこにはなにかしらの美術作品が展示してあって、しかしその作品の題名やつくったひとの名前を紹介するキャプションはしめされておらず、およそ言葉も通じない、あくまで「自然」という方向によりかかっているような、ただ美術そのものが景色と同等の距離感を保ちながら朴訥と存在している、あるいは不在している状況——つまり、作品も景色もおしなべられたところがあったとしたら、そもそも、展覧会という枠組みがなければその場所をたずねようとすることも、通りすぎることさえないのかもしれませんし、ささやかな空間の差異に気づくことのできるひとがたまたまそこにたどりついたとしても、そのひとが美術やアートという品詞をもちあわせていないかぎり、そこで言葉そのものが活用されることはないのかもしれません。たとえ美術という前提をその場で掲げたとしても、作品の価値性が希薄になったその場所で、そこに居合わせたひとは自らが自然に対しての窮極的な不自然であると自覚することもあるでしょうし、その不自然性にそっと寄り添おうとすることで自らの置かれた状況をたしかめようとするひともいるかもしれません。もっとも、それ以前に、作品そのものが雨風によって目のまえからすっかりきえてしまうということが、そこではごく自然なことのように起こりうるとして。

 わたし自身、壁に水性インクの万年筆で文字を刻んでいく以上、自分の作品はいつか必ず、絶対的にきえてしまうのだという避けられない命題を受けとめながら、作品の物質としての強度以上に、たとえそこで作品がきえてしまったとしても、そのきえていく弱さのなかにもひとつの強度があるのではないかと、半ば自身を擁護するように考えています。「きえること」と同時に「あらわれること」があるのだとしたら、それはまた、忘れることと同時に思いだすことができるという解釈も可能かもしれないと。そのようなありかたに等しくふれることができたなら、さらにそれが「自然」というありかたに準じたことであるならば、美術と景色が離陸と着陸の中間をさまようような場所において、わたしの言葉のありかたはひとつの弱さをたずさえながら、ときにはそこに言葉そのものの絶対的な矛盾を突きつけられても、あくまで景色そのものの自然性に従っていくことを選び、それはまた、場に寄り添いながらも離れていくこと、作品そのものの自然性に従っていくつよさを得られることになるのかもしれません。