2009/11/23

補完される景色

特に支障はないと感じていたのだが視力は徐々に低下していて、ついに眼鏡を買うことになってしまった。

買ってすぐに眼鏡をして、それがちょうど夜だったこともあって、まず街の光のたしかな輪郭を捉えた。次に看板や車内の吊り広告などの媒体に載った文字の明確さを捉えた。そして明くる日の朝、いつものベランダから見える景色の輪郭のたしかさと、その向こうにある山の色と稜線をたしかに捉えた。

新鮮な感覚である。ここ最近に行った美術館やギャラリーにもう一度行って作品を見直したいくらいである。


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ただ、こうしてずいぶんと世界が晴れた気はするけれど、ではいままで裸眼で見ていたものはなんだったのかとか、いつからそんなにブレていて、いつまで裸眼の状態で世界が明確に見えていたのかとか、自らの視力に対しても、世界を補完しようとする眼鏡に対しても多少訝しく思ってしまう。

僕は物事のアウトラインだけを捉えてそれで判断してしまうことが多々あるのだが、そういう性格はこの近視と乱視が起因していたのではないだろうかとさえ思う。眼鏡は性格をも補正しようとするだろうか。


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今はまだ眼鏡をしていることを忘れて指をぶつけることもあるし、耳の裏側に大袈裟な異物としての機器を装着しているような違和感を覚えることもある。幸か不幸か、僕は目薬をまともに差せないような触覚を併せ持っていて、コンタクトレンズなんて以ての外だから、この眼鏡とこれからの生涯を付き合っていかなければならない。

眼鏡との良い距離感を築くことができればと願っているが、ひとまずこの一週間ばかりは補正するかしないかのグレーゾーンで見ることをたしかめているような心持ちが続いている。

2009/11/21

家族でローヌへ、

ご多分に洩れず姉がボジョレー・ヌーヴォーを買ってきていたので、お相伴にあずかる。

素人であるわけだし、ボジョレー・ヌーヴォー自体いままで飲んだことがなかったので、とりあえず謙虚に、とりあえずそこにあるので頂く。よく知らないのでなんとも言えないものの、やはり色は若い感じがして、それはそれで綺麗である。飲みやすいから美味しいというわけではないけれど、瑞々しくてさらりとした味だった。


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ただ、このまま世間のように飲まれてしまうのも癪だったし、ワイン好きの友人の影響もあって、どこの誰が作ったワインかくらいはラベルから調べることにした。

姉の買ってきたそのワインは「ボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォー」という種類で、一般的にいうボジョレー・ヌーヴォーよりワインの品質評価の基準が厳しいとのことであった。そして、生まれたところはフランス南東に位置するローヌ県のSaint Jean d'Ardières(セン ジーン ダルディエール)という町で、アンリ・フェッシーさんという口髭をたくわえたおじさんが栽培からワイン醸造までを行って作っている、とのことである。

インターネットで調べてすぐにここまでたどり着けてしまったので、やはりそれなりに有名なところなのだろうか。けれどもまぁ、とりあえず自己満足的な部分は大いにあるけれど、飲んで調べて、見知らぬ土地の景色を思うことができれば、ワインの味もそれだけ記憶に残る。さらにボジョレーを空けた後に、まだすこし飲み足りないような感じで母親が買ってきた白ワインがあまり美味しくなく、それに比べたらやはり今日のボジョレーはそれなりに良いものだったのだろうという、やや安直でもあるがそういう結論に至る。


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そういえばこの日の夜は父も帰ってきていて、いつもはひとりずつの食事が珍しく家族揃ってのものだった。そして四人で一本のワインを分かち合うというのは、おそらくこの日が初めてのことであったと思う。父も母も姉も自分たちのペースで晩酌をするのが常だし、僕に至っては家でほとんど飲まない。

こういう夜が一年に一回くらい、たとえば11月の第三木曜日あたりにあっても良いのかもしれない。

2009/11/19

光に濡れる

気温だけはパリに追いついて一ヶ月前と同じコートとマフラーを身に着けているけれど、肌を掠める空気の質感は当然ちがうから、なんとなく寂しい心持ちになってしまう。単に憧れているだけだと言われれば、そうなのかもしれない。いまはもう、光に濡れる水面のような存在を求めているだけなのだ。


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夜、列車に身体を預けながらぼんやりと車内を見渡していた。名古屋方面の上り列車には乗客がひとりかふたりくらいで、躯体としての車両全体を想像するのに適した余白があった。

窓の景色はもちろん闇色に塗られていて、その闇に標しを残していくように光の粒が遠近に点在している。反射を繰り返した光の粒と車内の景色が同時に映り込んでいる。窓硝子一枚のなかに景色は積層されて、空間がひろがっていく。

景色全体にピントを合わせるように、取り残された光を掬うように、空間を知る。


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窓にうつり込んでいるひとが本を読んでいて、そのひとが頁を一枚繰るごとにさらに空間がひろがっていくように見えた。そこに書かれているものが物語であれ何であれ、本を開くことは空間をひろげることであり、本を閉じれば空間もそこで閉ざされるのだと、窓越しにそのひとの指先を見て思った。

庄内川の架橋を通過したとき、水面の光は車窓に濡れ、そのひとの本も濡らしていった。千種に着くころにはきっと乾いてしまう。もし乾かないのであれば、そのままずっと列車に乗り続けていたかった。

2009/11/18

ただ、冬に

この寒さのせいなのか、なぜか急にチョコレートが食べたくなって、二日続けて板チョコを買って仕事中にぽりぽりと食べている。職場の気休め程度のコーヒーもチョコレートのおかげで随分まともな味に思えてしまう。


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いま、特に不自由はない。

独り言も考え事もゆっくり温めることができる。けれども今、語れるはずだったことを失った事実に違いはない。

ただ、語れることと語るべきことは違う。僕はおそらく語るべきことを充分に語れなかった。ただ、共有の記憶を積み上げただけであったのかもしれない。


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先週くらいまで、夏からの延長で眠る前にはミネラルウォーターを飲んでいたが、ここ数日のあいだに白湯に切り替わった。朝飲んでいる牛乳も電子レンジで温める。この切り替わるポイントが、身体が求める季節の変わり目である。


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失ったことに涙さえ出ない。記憶を掘り起こしたとて結果は同じである。今はただ、どんな言葉も文章も、いくら投げても宙に浮いているだけのような気がして、どこにも着地していないような気がしてしまう。


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ビールでは身体が冷えてしまう。冷蔵庫の片隅にあった、お世辞にも美味しいとは言えない残り物の白ワインを含んで、身体はすこし温まる。


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しばらくは、どこにも定着しない。依存しない。つまらない妬みに苛まれても、それを否定するわけでもなく肯定するわけでもない。それはただ、そこにある。誰かが悪いわけではないし、誰かがどうにかできることでもないのである。


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何年か前に友人から誕生日プレゼントでもらったコーヒーミルを戸棚から出して、豆を挽くこと。まず、語るべき言葉を抽出するために。

2009/11/16

樹形と山景

たとえば果樹の剪定というのは、枝の伸びていく先から果実の大きさ、収穫量などを操作するための行為である。

実際に剪定をしたことがないのでそれが具体的にどんな感慨を併せ持ったものなのかは分からないけれど、刈り込む際には樹形を想定しなければならないそうで、それは言い換えれば多角的な視野をもってひとつの対象を見定めるという行為である。“樹形”という言葉を聞いたとき、どこかセザンヌと林檎の関係のようにも聴こえた。

セザンヌは対象物を平面に起こそうとすることでの話だから、剪定のように目の前の対象物に直接手を加えるいわば彫刻的な作業と比較するのは若干無理があるのかもしれないけれど、どちらも当然の如く空間あっての眼差しであることに違いはない。


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街から山を見るとき、山は景色の最背面にのっぺりと青く浮かんでいる。晴れた日にはいくらか陰影が認められるものの、平坦な絵のように山はある。飛行機に乗って上空から山を見るとき、山は自らの陰影を誇示するかのように迫ってくる感がある。それはもはや絵ではなく、空間に鎮座する立体物である。

身体を移行させればそれだけ視点や角度は無数に増えるから、山のかたちやイメージというのは多視点によって成立している、というようなコンセプトをもとに作品を作っているひとはすでにいる。そのひとはメディア系の作家であり、自分の扱うべき媒体と対象との関係をよく理解した上で作品を作っている。


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移行するというのは、距離を越えることでもある。

可能かどうかは分からないが、視覚や聴覚のみに特化した文章を書くことについて想定してみると、それが触覚、嗅覚、味覚であっても、それぞれの文章において距離と空間は必然であるというところに行き着いた。それはまるで美術そのもののようでもある。

そこに人がいて、対象があって、世界がある。人、対象、世界においての距離と空間を総称するならば、それは景色という言葉と符合するのではないか。