Royal Blue Mountain -parallel sight- (2007.11)





 △は山を見ている。
 山は否応なく△の視野の片隅に在り続け、半ば強制的に△の身体の片隅に在り続ける。その事実をありのまま受け容れるか、あるいは見て見ぬふりをするかは△の自由であり、それ以外の方法で対処しても構わないだろう。山以外にも見るべき景色はあるし、得るべき情報も沢山あるのだから、△はその中から好きなように選択し、必要なものを必要な分だけ見れば良い。しかし事実を覆すことだけはできない。それは△の示す態度とは裏腹に、否応なく、半ば強制的に容認せざるを得ないものだから。
 ある時、△は拒絶しながらも歩き出すだろう。その先に△自身の答えを見つけ出そうとするだろう。△はいつだってそうやって生きている。
 もし態度を保留したとしても、それはもはや△の導き出した答えであり、△の選んだ居場所となるはずだ。それが△にとっての救われることのない救いとなり、△が唯一持ち得ることのできる慰めとなる。そうやって思い込みさえすれば、△はとりあえず周りの景色に対して折り合いをつけることができるのだから。
 △がもし全面的に受け容れるならば、△は答えを出すことも考えることもできなくなるかも知れない。受け容れたところで△は浮遊するしかなくなる。あえてそうしたいのならば、やはり△は△の好きなように、△のしたいようにすれば良いだけのことだ。誰も△の選択を咎めることはしないし、否定もしない。それもまた△にとってのある種の拒絶となるだろうから。ただ、△の経験則からして受け容れるという選択も必然的に除外されるだろう。
 だから△は諦めにも似た夢のようなものを、いつまでも抱いているのだろう。△はそのことに気付き始めている。にも拘らず、△はそのことを誰にも伝えることができないでいる。△は明確な言葉というものを求めすぎている。△はあくまで矛盾を断ち切ろうとする。それは世界に対する最も合理的なやり方かも知れないが、△に背負える世界は限られていて、△の容量も限られている。もし容量を増設してまで伝えたいと思えたのならば、△はひとつ大事なものを捨てるか、その大事なものひとつだけに固執するしかない。
 今、幻想とはかけ離れた世界で安住を願う△がいて、幻想と紙一重の世界で揺れ続けていく△がいる。どちらにしたところで大した変わりはない、と△はまた言うだろう。△はどちらの世界にいても、裏返された言葉の先の、たったひとつの未熟な希望に触れようとするだろう。△の手にわずかに残るその感触が、次に起こすべき行動を決定付けてくれる。次の瞬間に見るべき風光へと導いてくれる。それとも△は、その黄昏の末期を見ずして消えるというのか。





2007|木製パネルに万年筆|88×62cm×2
鏡 -微睡みと反射-|京都精華大学 ギャラリーフロール