Royal Blue Mountain -complementary sight- (2007.11)




 目の前にある青は万年筆のインクだった。最も遠くにある青は名も知らぬ山だった。その距離感と居場所を測る物差しとして言葉を選び、青は色としての機能をごく自然に働かせることとなった。
 まず、言葉は部屋の中空に浮かんでいた。街の中空にも浮かんでいた。手を伸ばして捉えようとしても、実体のない言葉には触れることができない。それは中空の暗喩としての言葉だった。触れることは万にひとつの可能性。上手くいくのは稀のこと。瞬く光を永遠に捉えることができないのと同じように、言葉は見えない塵のように流れていく。例え捉えることができたとしても、その言葉を帰着させる術は単純に書くことだけでは収まらない。そうして浮遊する言葉の群れをそのまま見過ごすか、あるいはひとつひとつと向き合うかの分かれ道で、妥協した言葉を受け入れることもある。
 その時、常識と意識が乖離しない限り、言葉は穏やかな海のように静かで、杳然と波打っていた。何の脈絡もなく唐突に舞い降りてくる無意識が、常識と意識の境を足蹴にする。その時は正確な記憶だけが唯一の頼りで、言葉が自我で引き裂かれる前に救わなければならない。ノートの片隅に救われた記憶が飛び火していく。
 乖離と純粋な定着は紙一重で、いつも惑わされながら言葉を選ぼうとしている。結局のところ、最後に残るものは言葉ではなく身体かも知れない。景色の役割は言葉を生かすことでもあるが、身体の移動があるからこそ景色は移り変わり、言葉も移り変わる。時が経つことで生成と崩壊のプロセスが目に見えて分かる。目に見えぬ言葉はすぐに色を失う。
 そうやって限界を感じながらも、そこに依存し続けている。言葉の果てに夢を見るように、景色の果てに桃源郷としての山を見るように、空気に定着する色を青に見立てて、その青い連なりをいつまでも憧憬の念を以て見続けているだけ。
 だからこそ紙片に定着した文字としての言葉に、今どれだけのものを託せるというのだろう。そして空気に振動する声としての言葉にも、その瞬間にどれだけのものを託せるというのだろう。ましてや0と1の記号の世界で、現在どれだけのものを託せるというのだろう。すべては引用され、消去され、再生され、使い古されて、本来あったはずの名称さえ記憶されない。
 次々と矛盾が合理化されていき、始まりと終わりが設定され、あとは流れに乗るだけなのかも知れない。潔くそこに乗れないのはただ闇雲に迷っているからではなく、言葉に理想を掲げすぎるからだろう。消費することを恐れ、あてのない夢が失われることを憂いている。なぜならたった一瞬の光や、たった一行の言葉や、たった一言の言葉で世界は拡張されるから。今まで誰にも言わなかったけれど、そう信じてしまっている。身体を無下にしてきたばかりに。
 その一瞬の言葉のためだけに長い物語があった。長い物語を経てその一瞬に辿り着き、空気の沈殿した部屋から出ることができれば、世界は再び躍動し、言葉は身体と共に信頼を取り戻すことができるかも知れない。僕を取り戻し、伝えるべき意味や愛すべき意味を何度も反芻して、かりそめのままでも生きていくことを受け入れられるかも知れない。
 物語はまだ終わってはいない。語り尽くすには言葉がいくらあっても足りず、季節が移り変わればまたひとつ新たな言葉が生まれ、別の言葉が死んでいく。その繰り返しの連鎖の中で、物語を暫定的に知っていくことが求められるならば、今、残すべき言葉はこの中空に浮かんでいるのか。もし浮かんでいるとして、それを捉えるためにはやはりまず身体が必要で、この中空を構築している空気の色を認知することが必要だった。
 ここから彼方まで重なりながら続く青の景色の果て、あの山まで、ありのままを背負うことは想像を絶する。今できることは景色のスペクトルを立て直し、僕を消すこと。その始まりとして万年筆はそこにあった。支持体はいつの時代でもそこにあった。そして距離感と居場所を求めるため、書くことを選んだはずだ。
 言葉はいつか救ってくれるかも知れない。あるいは言葉を救うことができるかも知れない。例えばいつまでも胸に刺さったままの言葉があって、それはいつかの自分が書いたはずなのに、今では誰か他の人が言った言葉のように思えることがある。浮遊していた言葉はそうやって定着し、囁くように、確実にこの世界に響き渡る。
「偶然でも必然でもなく、ただ邂逅なんだよ」と、その人は言った。
 その人は偶然を否定し、必然をも否定し、最後には邂逅だけを手のひらの上に残した。導き出された答えを証明するものとして、あるいはこの世界を補完するものとして。





2007|壁面に万年筆
秋の芸術フェチフェアー|galleryアートフェチ