このブログについて

2007年から2014年までの7年のあいだ、ここに記していたことがあった。多いときにはひと月に10個くらいの文章を書いたり、いそがしいときにはまったく書かないときもあったが、結果としておよそ500個ほどに至った文章は、いずれも作品未然のものとして、あるいは作品と作品を連綿と繋ぎつづけるためのものとして、じぶん自身と景色について、景色という言語の整理のためのものとしてあった。それらはじぶんのために書いているところもあったが、ひとに読んでもらいたいという気持ももちろんあったし、問いかけたいこともあった。ブログ、読んでます、と仰ってくださるひとも時にはいて、作家のドローイングのような文章をここでしめすことによって、じぶん自身もふくめ、それが言葉そのものの本質に近づいていくためのひとつの方法になることを願っていた。

ただ、その文章をネットという環境に放ることにいささか抵抗を感じつづけていた。ネット上に流布する文章の類いは、およそ読み流される傾向にある。じぶんはただでさえ長ったらしいものや核心のない曖昧な文章を書いていたので、読み流されてもそれはそれで致し方ないと思ってはいたが、スクロールされるデスクトップ上の文字とのあいだの距離感というものはいかにも平滑に浮かびあがり、あるいはCとVへのキータッチに依存することもすっかり許されてしまった状況というものもふくめ、それは書き手にとっても読み手にとってもおなじ、言葉そのものが横滑りしていくような不信が拭いきれなかった。そうやって互いにやりすごせるネット上の言葉にはまるで距離がないし、空間もないとわかっているにも関わらず、そこに依っているじぶんの矛盾が気持悪かった。

2015年2月、思いきっていままでここに記したものを閉じた。つまり、非公開とした。それは言葉をあつかう作家として、表言すべきことについて考え、ひとつの緘黙を選んだということでもある。併せて、いわゆるソーシャルネットサービスといった類いのアカウントもすべて削除した。言葉そのものにとって、それらはどうでもいい付属品のように思う。

ブログの文章を閉じて、紙媒体の文章を自費で発行することにした。自宅のプリンターで紙に印刷し、一枚一枚じぶんで二つ折にし、なじみのギャラリーへ配達する。チラシ置き場のなかに埋もれたその一枚をだれかが手にとって、開いて、なかに書いてある文章を読む。なにかが響けばそのひとはそれを持ち帰って自宅で読むだろうし、なにも引っかかることがなければ閉じてそこに置いて帰る。書き手にとっても読み手にとっても、そのような一連の所作が、言葉にはやはり必要と思える。言葉が文字となり、紙に染み込み、そのページを繰ることによって動きがうまれ、ひとの眼とページのあいだに言葉そのものの距離ができ、時間が流れ、空間がうまれる。景色をみるように言葉そのものとふれること、景色と言葉をおなじ層に据えること、言象となること、あるいは言語という景色についてもっと考えること。

このブログのユーザーページのなかには、ここに書いていたかつての文章が日付けとともにすべて非公開の状態で残されているので(いくつかのものについては日付けが曖昧であるが)、然るべきときに然るべき言葉そのものが浮かんだら、いつかそれらの文章を紙のうえに印字するつもりでいるということを、この場の希有な読み手の方々にお伝えして、ひとまずこの文章を閉じることにする。

2015.5.18 masato ito