2009/02/11

移動について 名古屋-常滑

常滑へは所用もあって、月に一度は必ず訪れる。

千種から金山へJR線に沿って車を走らせる。雑多に入り組んだビルの合間を抜けて国道19号へ出ると、そこからずっと南下する。熱田の鬱蒼とした鎮守の森を横目に国道1号を横切ると、道は19号から247号に変わり、しばらくの間は背が低くなった建物が眼前に伸びていく。やがて川を越えて名和の交差点に辿り着くと、右折して産業道路(正式名称は西知多産業道路)へと入る。

産業道路とはその名の通り、産業のための道路である。それは知多半島への入口であり、海沿いに続く工場地帯と町を繋げる道であり、名古屋と常滑を結ぶ線である。信号のない自動車専用の道、70km以上の速度を保ちながら走り続ける道。人工的に配されていたはずの緑がどことなく自然なものに傾きかけながら、道の両手にビスタラインを形成している。そのビスタラインを寡黙に進み続ける。時折、踏みすぎたアクセルを緩めながら、ただひたすらに、まっすぐに進む。

右手の緑の向こう側には工場群が帯が成し、左手の緑の向こう側にはゆるやかな平地が続いている。それはいかにも平地と呼ぶのがふさわしいような気がする。平地には田んぼや畑が見える。そして車の速度で見る限りでは、誰も住んでいないように見えてしまう民家が点在している。


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20分くらいだろうか。産業道路を抜けると知多市、新舞子に出る。海が近付く。窓を開けると風の匂いが変わったことに気付く。うっすらと潮の匂いが混じっていると感じるのは気のせいか。そして景色はひらけて、空は格段に大きくなっている。名古屋のビルやマンションの存在の大きさ、それらが切り取っていた景色の角度に改めて気付く。

産業道路を出て、そこからは道なりにまっすぐ進んでも良いし、右に折れて旧道を走っても良い。どちらの道も走っていて心地が良い。道なりに進めばひらけた景色を見ることができるし、知多半島のゆるやかな山並みも見ることができる。旧道を走れば新舞子の海が見渡せるし、コールタールで黒く染まった大野の古い家並みを両側に見ることもできる。そして、そこを通り抜ければ常滑に辿り着く。道が空いていれば名古屋から45分くらいだろうか。混んでいても1時間を少し越えるくらいであろう。


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ここ数年は常滑へ行く頻度も増えたし、昨夏に至っては展覧会のために毎週通っていた。名鉄電車に揺られて行くこともあったが、常滑までの特急電車は途中の無人駅の存在を否定する速度である。無人駅、あるいは人気のない駅に沈殿する空気を少しずつ吸い込んでいける普通電車の方が良いのだが、電車はどうしても時間に束縛され、合理的になりがちで、目的地まで早く着くことを考えてしまう。

そして何よりも産業道路を通らなければ、常滑まで行った気がしない。その道を通ることがひとつの儀式のようであり、その道においての速度と、それに伴う緊張感が身体の組織を作り替えていくようでもある。また、延々と続くアスファルトと緑のビスタラインが視野に注ぎ込まれていくことで、視覚と聴覚、あるいは触覚をもリセットするかのようである。それらの過程を通ることで、ようやく常滑に辿り着いたと意識することができる。


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夜、常滑から名古屋へ帰る道程は、光を追うのに似ている。

常滑の空に光っていたいくつかの星は、名古屋に近付けば近付くほどその輝きを弱め、その代償として街の光が輝き始める。交差点をひとつ越えるごとに光量は増していき、常滑の町を隠していた闇は少しずつ光に溶かされ、名古屋に帰った時には身体はまた元通りになっている。

2009/02/01

成層圏に引いた青い線

人はみな故郷に戻るべきなのだろうか。故郷を離れてはいけないのだろうか。


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青い線が引いてあった。

なんでこんな箇所に線を、それも鉛筆とかではなく目立つ万年筆の青いインクで引っ張ったのか。数年後に再読するであろう自分への伝言のつもりだったのか、それともなにかしらの戒めを込めていたのか。


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数年前、池澤夏樹の「夏の朝の成層圏」を読んでいた。

何度か本屋で手にしながら迷っていた気がする。ほんの少しだけ読んで棚に戻したり、他の作品を少しのぞいてみたりして、結局どうして買うに至ったのかは覚えていない。

読み始めの1ページ目は良かった。空の描写だ。しかし、まもなくしてある部分に抵抗を感じた。それはもう日本語の小説にとって避けようもない宿命なのかも知れないが、その当時の僕は「ぼく」という一人称で語られるものに嫌気がさしていた。なぜ「ぼく(あるいは漢字表記での「僕」)」で語られなければならないのか、その理由が明確でない限り、易々と「ぼく」を信頼してはいけないと思っていた。

だが、この小説はその理由を無視するわけでもなく、さらりとかわしたように思う。決して明確な理由を述べてくれたわけではないのだが、物語においての「ぼく」と作家自身との関係をたった一言の転換で解きほぐしてくれた。そしてその転換は物語の展開、中枢である幹から枝葉までのすべてに余波を与え、人間が生きていくのに必要なこと、小説を書くために必要なもの、あるいは物語の中においての性交のシーンですらに、明確なモチベーションを与えたのだと思った。


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こんな感想は非常に愚鈍だが、読了した当初は「すべてが書かれてある」とさえ思った。それが風化することが分かっていたから、あえて青いインクを使ったのかも知れない。

160ページ目の9行目に沿う青い線は、当時の僕が抱いた極端な感動の表れでもあり、せめてもの慰めでもあった。そして今の僕にとっては、書くことについてのひとつのモチベーションとなった。次の再読がいつになるかは知らないが、青い線が示すものはもはや言葉以前のものに染み付いていくだろう。