2009/11/05

身体を運ぶあいだに

ここ一年ばかりのあいだに10日以上車を運転しない日がなかったので、パリから帰ってきて車を使うことがすこし怖かった。

乗ればすぐに感覚は取り戻せるけれど、いま事故を起こして身体に支障を来すことはぜったいにしたくないという思いがある。来年のことや再来年のこと、それ以降のこと、これから会わなければならないひとたち、これから書かなければならないこと、そのための目、身体、指先、そういうことを考え始めたら免許取り立てのころの運転で、車線変更をするのがまるで龍の背に飛び乗るかのような心持ちであったことを思い出した。

かなり小心者なので帰国してからのこの約二週間、車に乗らないことはないがときどき電車とバスを使って通勤している。バスに乗ると大量の学生たちに飲まれるけれど、本は読めるし景色は見えるし、柄にもなく現在っぽくiPhoneで音楽なんて聴いたりして、これはこれでなかなか良い。眠たくなったら眠れるし、ぼんやり光を追いながら考え事もできる。身体が運ばれていく快感のようなものがそこにはある。


 ◇


朝の光は車内いっぱいに注がれて、眠たげな目をしているひとたちの黒い髪を撫でていた。停車駅で開閉する自動扉の音には、すでに冬にちかい音が付着している。下り列車に人数は少ないから、空いた座席にいくらでも所在のない言葉を植え付けていく。

夜、列車は景色を移行する。闇に浮かぶ光の点は、わざと焦点をぼかして見ればそれがベルリンからワイマールまでの道程であったり、パリのRER B線につながっていく。自動扉の開閉音は寒さで湾曲した耳鳴りのようにも聴こえ、身体の芯のほうが痒くなる。


 ◇


自らアクセルを踏んで道を進むときよりも身体は開放されているようである。

身体を運ぶあいだ、通過する駅のホームの蛍光灯にふと言葉を見つけた気がして、家に帰ったらそれを書こうといつも思う。