景色とか風景とか、
「風景という言葉が一切なくて、景色という言い方をするんですね」
◇
それが至極当然のことであるかのように、僕は「景色」という言葉を執拗なまでに使う。
それは「風景」という言葉ではなく、「景色」でなければ何も言ったことにはならないのだと、いつから意識していたのだろうか。
過去に書いた文章を見てみると、6年前にヨーロッパを旅した時に書いた文章では「風景」を使っていた。あの頃は目の前の「景色」に対して何も考えていなかったのだろう。ただ過ぎ去っていく「風景」を言葉で追いかけることに精一杯だった。ちょうど二十歳の時だ。
5年前に初めて書いた小説では「景色」に変わっている。その当時の環境が僕の意識を「景色」に向かわせたのかも知れない。夏から冬にかけて、僕は七ヶ月ほどドイツに居た。
その翌年、つまり4年前に改めて書き直した小説でも「景色」を使っている。この時には意識的に「景色」を選択していた覚えがある。3年前から書き続けているフリーペーパー「名称未設定の手紙」でも、風景という言葉は使っていない。このblogの中でもおそらく風景という言葉は使っていないと思う。そこにあるのは景色だけである。
◇
風景という言葉から想起される安易なイメージを、どことなく毛嫌いしている感がある。都市や近郊の町並み、あるいは山々、海、河、草原、様々な環境においてのそれら「風景」は、季節によって色を変え、空の深みを変えていく。
春のあたたかい光、夏に透き通る濃い緑、紅く落ちていく秋、空気が冷えて緊張した冬の息。たしかに僕はそういったものに心を動かされる。そこが排気臭い都市の中であったとしても季節は平等に訪れ、人は移りゆく「風景」に触れている。
しかし、例えばそこから風景画というものは生まれたが、景色画というものは生まれなかった。
光景という言葉もあるが、それは過去の経験等から想起されたり、あるいは昇華された一瞬の景色であり、単純な町並みや自然といった日常に見る風景とは時間軸が異なるものであろう。
風景もまた、過去に属する。風景は現在形で捉えられず、過去形でしか捉えられない。どんなに現在形で言葉を綴ったとしても、現在書いたり話している事実はすぐに過去のことになってしまうように、目の前にある風景は過ぎ去るのが前提である。
◇
つまり、僕が「景色」という言葉を意図的に使用する理由は、抒情的になりやすい風景を言いたいがためではない。ついつい拾い上げてしまいそうになる余計な動機や心象を遮断し、詩や小説に属さないただの文章を欲するように、風景から離れた「景色」を捉えたいがためである。
景色というのは、今まさに、眼前であり、本来言葉では捉えられないものなのだろう。それをあえて言葉でなんとかしようとしている、という行為がどこに向かっていくのか、まだよく分かっていないのではないか。ただ、景色という言葉は、風景のメタとしてあるように思われる。
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それが至極当然のことであるかのように、僕は「景色」という言葉を執拗なまでに使う。
それは「風景」という言葉ではなく、「景色」でなければ何も言ったことにはならないのだと、いつから意識していたのだろうか。
過去に書いた文章を見てみると、6年前にヨーロッパを旅した時に書いた文章では「風景」を使っていた。あの頃は目の前の「景色」に対して何も考えていなかったのだろう。ただ過ぎ去っていく「風景」を言葉で追いかけることに精一杯だった。ちょうど二十歳の時だ。
5年前に初めて書いた小説では「景色」に変わっている。その当時の環境が僕の意識を「景色」に向かわせたのかも知れない。夏から冬にかけて、僕は七ヶ月ほどドイツに居た。
その翌年、つまり4年前に改めて書き直した小説でも「景色」を使っている。この時には意識的に「景色」を選択していた覚えがある。3年前から書き続けているフリーペーパー「名称未設定の手紙」でも、風景という言葉は使っていない。このblogの中でもおそらく風景という言葉は使っていないと思う。そこにあるのは景色だけである。
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風景という言葉から想起される安易なイメージを、どことなく毛嫌いしている感がある。都市や近郊の町並み、あるいは山々、海、河、草原、様々な環境においてのそれら「風景」は、季節によって色を変え、空の深みを変えていく。
春のあたたかい光、夏に透き通る濃い緑、紅く落ちていく秋、空気が冷えて緊張した冬の息。たしかに僕はそういったものに心を動かされる。そこが排気臭い都市の中であったとしても季節は平等に訪れ、人は移りゆく「風景」に触れている。
しかし、例えばそこから風景画というものは生まれたが、景色画というものは生まれなかった。
光景という言葉もあるが、それは過去の経験等から想起されたり、あるいは昇華された一瞬の景色であり、単純な町並みや自然といった日常に見る風景とは時間軸が異なるものであろう。
風景もまた、過去に属する。風景は現在形で捉えられず、過去形でしか捉えられない。どんなに現在形で言葉を綴ったとしても、現在書いたり話している事実はすぐに過去のことになってしまうように、目の前にある風景は過ぎ去るのが前提である。
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つまり、僕が「景色」という言葉を意図的に使用する理由は、抒情的になりやすい風景を言いたいがためではない。ついつい拾い上げてしまいそうになる余計な動機や心象を遮断し、詩や小説に属さないただの文章を欲するように、風景から離れた「景色」を捉えたいがためである。
景色というのは、今まさに、眼前であり、本来言葉では捉えられないものなのだろう。それをあえて言葉でなんとかしようとしている、という行為がどこに向かっていくのか、まだよく分かっていないのではないか。ただ、景色という言葉は、風景のメタとしてあるように思われる。
