名称未設定の言葉、景色
不意に頭の中に言葉が浮かぶことは、よくあるようで、なかなかない。
本当に何も考えずに、純粋に移動行為の中にいる時、例えば電車に乗っている時などに、ふと言葉が浮かんだこともあるように思うが、実際にそういう経験をしたことはあまりない気がする。言葉に詰まりながらも言葉を探し、疲れ果て、ベランダで煙草を吸う。火を消した瞬間くらいに、意図しない言葉が生まれたりする。探していた言葉とはまったく別のものなのだが、そういう言葉は急いでメモをとっておく。どこにも定まらない、しかし微かに生きることを望もうとする、名称未設定の言葉。
◇
言葉そのものの所在は、まるでホワイトキューブに置かれた美術作品のように、浮遊しながら辺りを窺っている。その位置と距離間を設定すると、言葉は定着することができる。あるいはどこにも定着せずに消えることもできる。
◇
僕がいつも言う「文章」という生き方の場合、それは詩や小説という源流があってこその「文章」なのだが、その「文章」における言葉はなんだか不安そうな面持ちで、像や物語をどこかで欲しているものの、あえて概念から景色を組み立てようとしている。
「文章」において用いられる言葉は、そのひとつひとつは何ら意味のない言葉であるべきで、個人的な感興や像や物語を排したところにこそ、ひとつの景色が立ち上がる。その景色は「ただの景色」である。見落とされてしまうことが多々起こり得る、そのただの景色に直面した時、人は初めて試される。そこで人はどうするのか、その現在、その瞬間において、人は、僕はどのような生き方を選択するのか、そこで試されるべきである。
そこで声高に叫ばずとも、聴こえる言葉はある。
本当に何も考えずに、純粋に移動行為の中にいる時、例えば電車に乗っている時などに、ふと言葉が浮かんだこともあるように思うが、実際にそういう経験をしたことはあまりない気がする。言葉に詰まりながらも言葉を探し、疲れ果て、ベランダで煙草を吸う。火を消した瞬間くらいに、意図しない言葉が生まれたりする。探していた言葉とはまったく別のものなのだが、そういう言葉は急いでメモをとっておく。どこにも定まらない、しかし微かに生きることを望もうとする、名称未設定の言葉。
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言葉そのものの所在は、まるでホワイトキューブに置かれた美術作品のように、浮遊しながら辺りを窺っている。その位置と距離間を設定すると、言葉は定着することができる。あるいはどこにも定着せずに消えることもできる。
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僕がいつも言う「文章」という生き方の場合、それは詩や小説という源流があってこその「文章」なのだが、その「文章」における言葉はなんだか不安そうな面持ちで、像や物語をどこかで欲しているものの、あえて概念から景色を組み立てようとしている。
「文章」において用いられる言葉は、そのひとつひとつは何ら意味のない言葉であるべきで、個人的な感興や像や物語を排したところにこそ、ひとつの景色が立ち上がる。その景色は「ただの景色」である。見落とされてしまうことが多々起こり得る、そのただの景色に直面した時、人は初めて試される。そこで人はどうするのか、その現在、その瞬間において、人は、僕はどのような生き方を選択するのか、そこで試されるべきである。
そこで声高に叫ばずとも、聴こえる言葉はある。