2008/12/31

名称未設定の言葉、景色

不意に頭の中に言葉が浮かぶことは、よくあるようで、なかなかない。

本当に何も考えずに、純粋に移動行為の中にいる時、例えば電車に乗っている時などに、ふと言葉が浮かんだこともあるように思うが、実際にそういう経験をしたことはあまりない気がする。言葉に詰まりながらも言葉を探し、疲れ果て、ベランダで煙草を吸う。火を消した瞬間くらいに、意図しない言葉が生まれたりする。探していた言葉とはまったく別のものなのだが、そういう言葉は急いでメモをとっておく。どこにも定まらない、しかし微かに生きることを望もうとする、名称未設定の言葉。


 ◇


言葉そのものの所在は、まるでホワイトキューブに置かれた美術作品のように、浮遊しながら辺りを窺っている。その位置と距離間を設定すると、言葉は定着することができる。あるいはどこにも定着せずに消えることもできる。


 ◇


僕がいつも言う「文章」という生き方の場合、それは詩や小説という源流があってこその「文章」なのだが、その「文章」における言葉はなんだか不安そうな面持ちで、像や物語をどこかで欲しているものの、あえて概念から景色を組み立てようとしている。

「文章」において用いられる言葉は、そのひとつひとつは何ら意味のない言葉であるべきで、個人的な感興や像や物語を排したところにこそ、ひとつの景色が立ち上がる。その景色は「ただの景色」である。見落とされてしまうことが多々起こり得る、そのただの景色に直面した時、人は初めて試される。そこで人はどうするのか、その現在、その瞬間において、人は、僕はどのような生き方を選択するのか、そこで試されるべきである。

そこで声高に叫ばずとも、聴こえる言葉はある。

2008/12/21

伝えたいこと

「伝えたいことなんて何もないです」

そう言い放ったのは今から4年ほど前のことだった。
そうやって抗い、僕たちの現状を伝えたかった。伝えることが何もないことを伝えたかった。しかし、結局彼らには何も伝わらなかった。彼らは僕たちの思っていることとはまったく別の次元のものを要求していたのだろう。

あの時の僕の判断は今でも正しかったと思っている。当時の21という齢において、僕の言葉は正しかった。ただ、4年という歳月の中で僕も変わっていく。彼らのような立場に、彼らの考えている次元に少しだけ近付いている気もする。しかし、別にそれで嫌な気持ちになるというわけでもない。そうやって去勢されていくものだし、今は今で正しいとも思う。

例えそれが偽りであっても、言葉は繰り返すことによって精錬されていく。ひとつの正しさは他者からの否定を潔癖とも言えるほどに拒絶し、黙々と言葉を取り替え、より正しい方向へ進もうとする。

今はどうだろうか。

「伝えたいこと」というものは、自らを守るための言葉であり、自らを信じるための言葉である。もしそれが誰かに伝わったのならば、僕は他人を信じることができるのかも知れない。

2008/12/02

interior-exterior

いつからか、家具を見たり触れたりすることが好きになっていた。

気が向くとインテリア・ショップを訪ね、色々と物色をして家具との距離感やその質感を確かめたりしている。距離感とその質感が程よいものであれば、欲しいと思う。ただ、そう易々と買えるものではないので、もっぱら確かめてばかりだが。

ところで、そういった類いの店にいて気分良く物を見始めていたにも関わらず、ふと我に返ることがあったりする。そこには文化の錯誤だったり資本主義云々といったことも少なからず影響しているのかも知れないが、そういうややこしいことを抜きにしても、その場はやはりどこかがおかしい。その場において構築されている「状態」というものに違和感を覚える。


 ◇


まず、店舗という限られた面積内で商品を配置していること。そして、その面積の中で客に生活感をイメージさせなければならないということ。さらにその生活感というのは客それぞれによって異なるものであるし、店のコンセプトを絶対的水準にして、客をその水準にまで、あるいはそれ以上の魅惑の水準へと引き込まなければならないということ。

大層気に入って買った物が、いざ家に届いて中身を出してみると、店で見たときの印象と違っていたということはよくあることだと思う。家と店とでは空間の成り立ちが違うし、空間における動線もまったく別物なのだから、そういったギャップは当然生み出されるものだ。例えば店の中にソファとコーヒーテーブルによるリビングが演出されていたとしても、その場所ではそれ以上の多層な空間は生み出せず、こちら側にもそれ以上の空間認識は為されない。そこで完結させられてしまう。

だからと言って、モデルルームのような仮想的な空間内で家具が設置してあったとしても、それはやはり自分の家ではないのだから、現実生活に置き換えるための想像力は仮に与えられたその理想空間の中で剥ぎ取られる。また、家具と家具の関係性においても、例えば同じブランドだったり似たような趣向のもので統一させられたりして、一般家庭に見受けられるような不揃いの現実的な生活臭は一切葬り去られる。


僕はただ、そこにある物を正しく見ようとしているだけである。
では、どうしたら正しく見ることができるのか。


 ◇


店員という存在は、そこにある商品について熟知している(というのがあくまで理想)。こちらから訊かなくても話し掛けてくる。話し掛けられてもいやな感じがしない店は配慮があって良い店だと思うし、おそらく店員も客の顔を見て話の切り出し方やなんかを判断しているところがあると思う。

先日、気に入っているインテリア・ショップへ行った時のことだが(ここまで好き勝手に言いながら、それでもそういう店が好きらしい)、やはり店員は話し掛けてきた。その女性の店員は丁寧にソファの材質や座り心地を説明してくれて、実際に座ってみると確かに心地が良い。彼女たちの仕事は我々に生活空間におけるひとつの正しさを提案するものなのだと改めて思った。

別のフロアへ行くと、少し間を置いてから先程の女性の店員が付いてきて、今度は壁に掛かっていた美術作品の説明をしてくれた。正直、戸惑いもしたが、その店員はソファの説明と同じ線上で作品の話をした。


 ◆


家具であれ、美術作品であれ、距離感、またそこにおける質感を確かめるためには、その物に即した場所と状態がなければならないのだと思う。また、その物を提示し、あるいは販売する人という存在も重要なキーに成り得る。

その物の正しさを確かめるためにも、適切な場所と状態を見定めることが試されている。