2008/11/23

たしか青野といった

春日井駅で一冊の本を手渡された。

それだけ渡すと彼は去っていったので、僕の手元に残ったその本が、必要以上に何事かを語ろうとしているように思われた。


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今日の帰りの電車ではこの本を読もう、と決めていた一冊があったので、突然現れたその新たな一冊に戸惑った。なんだか新品のような気もするし、スピンも適当なページとページの間で綺麗に押し固められている。おそるおそる冒頭のページを繰ってみると、柳田國男の抜粋がそこにはあった。


『石州の津和野を出て、益田の方へ下りてくる路の右手に、たしか青野といった山の麓の村などは、なんの光もないような古びた一団であったが、目に立つ里の木がみんな同じほどの年ごろで、樹の種類までが一つらしいのが、いいようもなくなつかしかった。』


この一文で思わず僕は打ちのめされてしまった。さらにこれを抜粋した著者の語り口についつい引き寄せられ、途中で降りるはずの駅をやり過ごして終点の駅まで読み耽ることになった。特に『たしか青野といった山』という箇所が、僕にとっては至極個人的な邂逅にあてはまり、柳田國男の口を借りれば、それはいいようもなくなつかしかった。


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僕は文章を書くわりにはあまり本を読まない人間である。読もうかな、という意識はあるのだが、本屋に行っても背表紙を眺めているばかりで、手が伸びていかない。だから名を知っていてもその人の著書を読んだことがない場合が多い。

他人に本を勧められてもよっぽどのことがない限り読まないので、今回のようにある意味無骨ともいえる本との出会いだと、余計な詮索や疑心を飛び越えてしまって案外すんなりと活字の中へ入っていくことができる。単純に話す時間がなかったから本を媒介にして挨拶したようなものだったのだが、多くの対話より一冊の本が代弁してくれることもあるかもしれない、と読了後に思った。

手渡された本を切符代わりに、瑞々しくもあり影のある言葉をたどりながら、たしか青野といった山を見に行きたくなる一冊だった。

2008/11/14

限界地点で

森林限界という言葉がある。

高山において植物がそれ以上の高度で生育できなくなる地点のことで、たまたま見ていたテレビでその言葉を知った。山の頂へ向かって緑が這い上がっていくように見えるのだが、ある地点から低木になり、次第に灰色の岩肌があらわになって頂上へと達する。


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限界集落という言葉がある。

過疎化が進み、人口の半数以上が高齢者ばかりになることでコミュニティを維持できなくなってしまうこと。人がいなくなった集落は消滅集落というらしい。また、地方集落だけでなく都市部においてもそのような限界が生じているらしい。


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前者においてはそれが自然の形なのだし、単純にそれ以上の環境では生息できないだけで、だからどうこうといった問題があるわけではない。後者においては人の関わること、情けが入り混じるし、知る由もない望郷の念に駆られたりして、しこりが残って気持ちを持て余してしまう。

いずれにせよ、限界というある地点を超えたところでは無になってしまう(集落においては「無に帰る」という考え方も幾分あるかも知れないが)。


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言葉の限界について考える。

もし言葉が限界を迎えたならば、その時は言葉を捨て、沈黙するしかないのだろうか。あるいは言葉以外の方法を編み出して伝えようとするのだろうか。

言葉を獲得し、それを表現まで高めた理由を僕は知らない。それと同様に、限界を超える理由も知らない。そういったそれぞれの過程の中で、言葉はその状況をどんな像としてあぶり出すだろうか。

右から左へと濁流のように流れる意味不明の言葉や、闇雲に積み上げられていく性別不明の言葉でさえ、限界があるのかも知れないし、すでに像をあぶり出しているのかも知れない。その判断は言葉が定着する支持体にもよる。


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以前、「詩は死んだと思っていました」と人に言われたことがある。

その人の真意までは分からないが、詩は一度限界を超えて死を迎えたと思ったのだが実はまだ生きていたことを発見した、ということだろうか。僕は詩というものがよく分からないし、そもそも詩を書いているつもりでもなかったので、それが生きていようが死んでいようがどっちでもいいことだったのだが、例えばここに生きた言葉と死んだ言葉があるとして、そのどちらかの選択、もしくは判断を迫られた時、選び取る理由はその人という支持体によるしかないのだろうし、おそらくそれがすべてだ。

限界地点において、人も言葉も植物も、あるいは美術さえも、定着するために必要な次の理由を言葉にすべきか緘黙すべきかで、生きるか死ぬかが常に試されている。

2008/11/04

L.W.

その本を読んでいる時、言葉の底に潜り込んでいくようでとても息苦しい。少しずつ齧るように読むのだが、その命題ひとつ読み終えるごとに嘔吐しそうな感覚に陥る。早く新鮮な空気を取り込みたいとも思うのだが、そのまま次の命題に進まなければ空気は新鮮にならない。


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それは当時においての言葉の極相だった。

その「言葉」を読むこと、その「言葉」を理解するということは、常に誤読と紙一重のところにあると思う。これは「読み手が自由に感じ取ってもらえば良い」といったような曖昧で、無責任で、自由なものではない。彼の語彙と、読み手が持ち得る語彙が共通した場合、それはおそらく理解という状態に限りなく近いか、あるいは単純に誤読となる。(ただ、誤読というのは読み手自身がそれを「誤読している」と認識していないところが都合の良いところでもある。)

そもそも、彼はその「言葉」を完璧に伝えようとしていたのだろうか。現代という地点に立ちながら彼の「言葉」を追うことに少し違和感を覚える。彼の「言葉」はもはや更新されることはなく、誰かが彼の意志を引き継いで更新しているとしても、その引き継ぎにはやはり少なからず誤読がある。


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言葉も美術も生き物である。その時代によって扱い方、扱われ方は変化する。現代のワケの分からない言葉がいつか古文の教科書に載るかも知れないし、あるいは無駄な情報と一緒に淘汰されるかも知れない。

そのことを理解した上で(それが果たして理解可能かどうかは今現在を生きている限り理解不可能かも知れないが)、言葉を文字に起こさなければならない時もある。太古の文字がどこかで発見されたとしても、その文字を解釈するのはあくまで現代の言葉による解釈であり、現代は常に更新され続けている。推測はできても解釈はできない。書かれた文字はすでに過去であり続ける。


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翻訳というものも似たようなものかも知れない。彼の本を読んでいると、訳者の努力云々より、それが日本語になってしまったことに恐怖すら感じる。単にニュアンスの問題だと言ってしまえばそれまでなのだが、例えば僕の言う「言葉」や「文章」というものを英訳する時、いつも迷う。もしかすると中学英語の一番最初の「This is a pen.」程度のものが実は最も適切なのかも知れないが、「a pen」に代替可能な「言葉」はやはり見つからない。僕自身の英語能力の問題もあるが。


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ここ数年、美術という状況において書いてきたことによって、僕は幾らか彼の言葉に近いものを「なんとなく」という曖昧で、無責任で、自由に獲得していたことは再認識できた。彼の言葉の中で完璧に理解できたと思えるものは(もちろんそれも曖昧で無責任で自由な範疇でのことだが)、一番最初の一節と一番最後の一節だけである。

やはり、彼の言葉を理解することはできない。僕はそれを書こうとしているから。