2008/06/29

古い本

古本というものが苦手で、買う時はほとんど新品で買ってしまう。

図書館の本に関しても、最近になってようやく借りることができるようになったのだが、まだ少し抵抗がある。古本と同様に古着というものも苦手で、かつて誰かが使っていたという事実、目には見えない形でも元の所有者の空気がそこにじっとりと染み込んでいるような気がしてしまう。

それが家族や親戚、親しい人から譲り受けた物ならば本も服も問題ないのだが、どこのどなたか分からない人が着ていたり読んでいたりした物は、なんだか恐いのである。

先日、常滑市立図書館で谷川徹三の蔵書を借りてきたのだが、これに関しては元の所有者が明確なのでまあそんなに問題はなかった。ただ、図書館の本は多くの人たちが借りることのできるものである。それを今、自分の手元に一時的であるにせよ置いてあることが、やはり恐い。


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具体的にどう恐いのかと言うと、そこに刻まれている文字に不特定多数の視線も刻み込まれているように思えてしまって恐い。

今読んでいるのは自分だけだが、それ以前に読んでいた人々の視線と今の自分の視線がそこで重なっている。本はひとりでしか読めないはずのもので、ひとりの中へ閉じこもっていく性質もある。それが心地良くもあるはずなのだが、古本や図書館の本はそうはさせてくれない。常に誰かの視線がそこにある。


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結局は、所有したい、独占したいという欲なのかも知れないが、殊に古本、そしてそこにある文字(活字)というものに関しては畏れ多い。

例えば谷川徹三の蔵書のある一室は、蛍光灯が点いておらず、うっすらと昼間の光が染み込んでいるだけだった。本棚と本棚の間に立って一瞬怯んだ。古さを携え、さらに多くの人たちの視線を吸収し、閉じられて整然と並べられた状態の本、そこに孕まれている無数の文字。文字。文字。文字・・・。その背表紙に手を伸ばすことさえ少し恐かった。

文字というものは生き物なんだと思う。そこでは、文字は誰かに読まれるのを待ち続けて、ひっそりと息をしているようだった。文字の呼吸がページの一枚一枚を古びた黄色に変色させていくように。

2008/06/09

海だけがない

「街から海へ向かう」という、物語の筋としてはただそれだけの短い小説を3年ほど前に書いたことがある。僕が文章を書き始めて以来、小説として完成させることのできた唯一のもの。ふと海へ行きたくなる時があるように、この小説もふと読み返したくなる時がある。


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ここ数年、よく常滑へ行く。今月に入ってからは次回展覧会のこともあって毎週行っている。名古屋から車で1時間ほど。知多半島の側面に、南北に伸びた形で常滑はある。

僕の住んでいる名古屋の千種は、朝から夜明けまで車の行き交う音が絶えず、電車の音もかなり響く。今はもう何も感じなくなってしまったが、ここに越してきたばかりの時はかなり排気臭いと思った。夜になっても星はほとんど見えない。そういうところに暮らしているせいか、いつも常滑へ行く度に感心してしまう。静かで、星が見えて、そして海があるから。



潮の満ち干のような穏やかさがそこにはある。いわゆる観光スポットとなっている焼き物散歩道も良いけれど、散歩道の南に位置する商店街を歩いていると、何か肌に吸い寄せられるようなものを感じる。

商店街と言っても多くの店が軒を連ねているわけではなく(かつてはやはり賑わっていたらしいけれど)、栗蒸し羊羹の美味しい和菓子屋さんがあったり、雑貨洋品店があったり駄菓子屋があったり、あやしげな喫茶店があったり等々、必要最低限とも思えるささやかな商店があるだけで、あとは営業しているんだかどうだか分からないような、店のような民家のようなものが多々ある。商店街はそこに暮らしている人たちのためにあって、その場所の生活に根差したものである。名古屋の真ん中近くに住んでいるとそういう感覚はほとんどなくなる。

そこには僕の住む街にはない生活感があって、それぞれの生活感が密接している。現に商店街の道幅は車が一台通れる細さしかなく、裏道に入り込めば民家と民家の距離間がかなり短い。家と家が近ければ、それだけ人と人との距離も近くなる。

海まで続く小さな川があって、そこでおじさんが釣りをしている。小学生の集団もやってきて賑やかである。橋の上で人々の往来があり、ささやかな対話もある。僕はそれをぼんやりと見つめている。なんだか自分が場違いであるような気もする。


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見知らぬ日常にそっと入り込んでみるようなものである。でもどこかで見知っているような気もする。

僕の街には海だけがない。ここに住む人たちは海を知っている。海までの道を知っている。それが日常の中にごく普通に組み込まれている。海がない僕は、それを物語にした。そんな僕が今度は海の町で美術作品を作ろうとしている。

潮風が町の表面を浸蝕するように、波が岩肌を削るように、海岸線が長い歴史の中で推移していくように、そこに作品があれば良いと思う。