2008/04/29

愛について

「愛って、記憶だと思うんだよね」

と先生は言った。

「愛」という漠然とした、どこかで使い古されてしまったかのような、しかしどこかに遍在しているような、いわゆる形のないものについて、僕と先生は語り合っていた。



事の発端は「伊藤の文章と何かできないかなぁ」という先生の燻っておられるかのような一言だった。先生と作品を作るならどんなテーマが良いだろうかと考えた時、ふと「愛」が良いのではないかと思った。

正攻法すぎるけれど、あえてそこに言及してみようとすること。誰にでもあるのかも知れないけれど、簡単に言葉にしてしまうのをためらってしまうこと。そして先生と僕の年齢差、意識の差異と共通点。

一度、愛について語りましょうということで一席設けることとなり居酒屋に行ったのが、2006年の夏か秋くらいだったろうか。卒業して3年が経ち、先生とゆっくり会える時間がなかなか取れないため、今では数ヶ月ぶりに会うことがあれば「どうですか」と話したりする。



作品の構想は何ひとつ話していないのだが、それ以来、どこかで愛を意識している。白髪の増えた両親を見て愛について考える。名古屋を離れて遠くに行ってしまった友人を見て愛について考える。テレビで殺人の報道を見ても愛について考える。

すべてがそこに帰結してしまうのかも知れないが、どこかで躊躇しているのはなぜか。愛という言葉が引き起こす作用に怯えているからなのか、その言葉を疑っているからなのか。

日本語の歴史としても、この言葉のあるべき姿をどこかで取り違えてしまっているのだと思う。言葉に捕われることなく、言葉を捉えることは困難で、ここでまたしても限界のせいなのかと思う。

2008/04/14

日本語の限界まで

「詩ですか」
とよく訊かれることがある。

僕はそれを「文章」と呼んでいる。

フリーペーパー「名称未設定の手紙」に書いているものは、詩ではない。それは単に責任逃れなのかも知れないが、詩として書いているつもりはないし、できることならば詩にはしたくないと思っている。

また、もし詩の書き方というものがあるのならば、僕はその方法を知らないし、詩のことを知らないのに自分の書いたものがそこに属すると断言するのはおこがましいとも思っている。

僕が書くものは未だどこにも属することのできない、ただの文章である。





「日本語の限界を感じるんですよ」

昨年の夏、ある人は僕にそう言った。僕はそれを認めている。僕自身の語彙が限定されている問題もあるが、書いていてどうしても越えられないものがそこにあることは分かっている。

けれども、それは決して絶望しているわけではない。





書きかけの小説がある。

最後に書いたのは2年前くらいだろうか。その2年の間に僕は新しい美術の作品を作り続け、小説というものから離れたところにいた。

久し振りに読み返してみると、これがまた酷い文章であった。どうして酷いと思ったのか。それは時間の経過という理由もあるが、美術作品を作っていたからそう思ったという理由もある。

美術の言葉があり、小説の言葉があり、どこかに切り替わるスイッチがあるらしい。





現代美術という言葉がある。現代小説、現代詩という言葉もある。抱えている問題はそれぞれ似ているようにも思う。それぞれの希望がそれぞれの絶望をいとも簡単に打ち砕いていってはくれないものか、などと妄想してみたりした。

2008/04/06

言葉が少し生きている

アートウェブサイトの「peeler」に、1月の個展「Royal Blue Mountain -sight hearing-」のレビューが掲載された。日頃からお世話になっている田中由紀子さんによる評である。
今回の個展ではこのような形で記録を残すこともでき、作品としてもひとつの節目を迎えられたように思っている。2006年の12月に「Royal Blue Mountain」という作品を作り出した時からずっと引っかかっていた思いを、この「Royal Blue Mountain -sight hearing-」という個展に帰着させ、昇華させようとしていた。結果、2006年の時には伝えられなかったことが少しは伝えられたような気がしている。

あの時、言葉が少し生きていた。

と、個展を終えてから思った。けれどもまだ越えている実感までは至らなくて、飛び立つ瞬間までは掴めたような感じだった。 もっと飛ばなくちゃいけない。



□視覚と聴覚、身体感覚で捉える風景の本質|text 田中由紀子
 http://www.peeler.jp/review/0803aichi/index.html