2008/11/14

限界地点で

森林限界という言葉がある。

高山において植物がそれ以上の高度で生育できなくなる地点のことで、たまたま見ていたテレビでその言葉を知った。山の頂へ向かって緑が這い上がっていくように見えるのだが、ある地点から低木になり、次第に灰色の岩肌があらわになって頂上へと達する。


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限界集落という言葉がある。

過疎化が進み、人口の半数以上が高齢者ばかりになることでコミュニティを維持できなくなってしまうこと。人がいなくなった集落は消滅集落というらしい。また、地方集落だけでなく都市部においてもそのような限界が生じているらしい。


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前者においてはそれが自然の形なのだし、単純にそれ以上の環境では生息できないだけで、だからどうこうといった問題があるわけではない。後者においては人の関わること、情けが入り混じるし、知る由もない望郷の念に駆られたりして、しこりが残って気持ちを持て余してしまう。

いずれにせよ、限界というある地点を超えたところでは無になってしまう(集落においては「無に帰る」という考え方も幾分あるかも知れないが)。


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言葉の限界について考える。

もし言葉が限界を迎えたならば、その時は言葉を捨て、沈黙するしかないのだろうか。あるいは言葉以外の方法を編み出して伝えようとするのだろうか。

言葉を獲得し、それを表現まで高めた理由を僕は知らない。それと同様に、限界を超える理由も知らない。そういったそれぞれの過程の中で、言葉はその状況をどんな像としてあぶり出すだろうか。

右から左へと濁流のように流れる意味不明の言葉や、闇雲に積み上げられていく性別不明の言葉でさえ、限界があるのかも知れないし、すでに像をあぶり出しているのかも知れない。その判断は言葉が定着する支持体にもよる。


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以前、「詩は死んだと思っていました」と人に言われたことがある。

その人の真意までは分からないが、詩は一度限界を超えて死を迎えたと思ったのだが実はまだ生きていたことを発見した、ということだろうか。僕は詩というものがよく分からないし、そもそも詩を書いているつもりでもなかったので、それが生きていようが死んでいようがどっちでもいいことだったのだが、例えばここに生きた言葉と死んだ言葉があるとして、そのどちらかの選択、もしくは判断を迫られた時、選び取る理由はその人という支持体によるしかないのだろうし、おそらくそれがすべてだ。

限界地点において、人も言葉も植物も、あるいは美術さえも、定着するために必要な次の理由を言葉にすべきか緘黙すべきかで、生きるか死ぬかが常に試されている。