note house/11 -部屋と景色、室内と室外、言葉と光-
展覧会最終日の午後4時頃、天窓から透き通る光は屈折して、部屋の壁に木洩れ日のような景色を浮かび上がらせていた。翌日の同時刻、搬出が終わってから何気なく立ち寄った常滑の海浜公園で、その木洩れ日の光源を見つけた。
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"室内"と"室外"は天窓のガラス越しに、光という共通項で繋がっている。
単純に捉えてしまえば、それは窓を通して室内に光が射し込んでいるだけのことだった。そして、その光は当然の如く太陽から発している光であったということ。
室内から室外へと視野を移行させた時、光は解放される。あるいは室外から室内へと視野を移行させた時、光は集束される。また、室内と室外では空間としての認識方法はまるで違うけれど、壁や屋根といった境界の概念を排して、光との距離感ということに限定させて内と外の状態を捉えてみれば、それらはほぼ同質の距離感にあって、互いに補い合っているかのように見える。
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あの部屋に言葉を集約させようとしていた。
カメラが光を集めて像を結び上げるように、あの部屋に言葉を集めて像をあぶり出す。景色から掬い上げたものは言葉になり、その言葉は文字に、ある場合には音声になる。文字は石灰石の壁にペン先で強く刻み付けられる。ある時にはそれは色濃くあぶり出され、ある時にはそれは薄く滲む。
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よく「光」と「言葉」というふたつの言葉を同義のものとして考えることがある。ここで言っている「光」というのは、単に希望的、救済的というような意味合いを含んだイメージとしてではなく、景色を構成する要素としての光を指している。従って、言葉というものも景色を構成するひとつの要素として考えている。
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言葉というものに囚われてしまったがために、言葉を還元させようとしている。
その方法として、まずここに美術がある。
