良い風が吹いている
外に出たのは陽が西に傾いてきた頃で、昼間の熱を帯びてほんのり重たくなった空気は、時間と共に少しずつ落ち着き、良い風を運ぶ。
正文館で立ち読みをしてからヴァンサンヌに行くと、ウェイターさんは「こんばんは」と言う。すぐ「こんにちは」と言い直して「店の中が暗いから時間が狂って、」と付け加えた。間違いではなさそうな時間帯ではあったが、空が完全に暗くなるまでにはまだ時間があった。
少し効き過ぎなくらいの冷房。その冷房の匂いが好きだったと改めて思い出す。空気が少しだけ冷えたカフェと、手元のコーヒーとの温度差。それが1年ぶりの初夏との挨拶みたいなもので。
◆
結局、今日の昼間みたいに何か事務的な仕事をしていればその時は忘れてしまうのだが、ふと手を止めた時、思い出して落ち着いていられなくなり、外に出て気分をごまかそうとして、あれこれと迷った挙げ句にコーヒーを啜りながら、やはり本を読むには照明が暗すぎることは疾うに分かっていて、開きかけた遠野物語は閉じておき、いつも通りここでは無印のB5ノートとプラチナのカーボンペンを出さざるを得ない。
と、句点を置かずに文字を打ち込んで、やはり今もごまかそうとしている。
◆
そのB5ノートにブラックインクの文字を詰め込む時、いつも外にいる。9年か10年近くこの作業をしているが、いつの間にか自分の部屋では書かなくなった。たぶん、書けなくなった。毎日書き続ける時もあったが、今ではひとりで外に出た時だけ、独り言のように書く。
外で書くのは、たぶん、待っているからだ、と今日ふと思った。
◆
馴染みのウェイターさんにはいつも話ばかりで実際に作品を見せたことはなかったので、写真が印刷されたものではあるけれど勘定の際にリーフレットを渡した。
そのウェイターさんは、僕がいつも何やらカリカリと書いていることを見知っているので、文章からあぶり出された山の姿を見て、僕のこのカフェでの行為の意味を理解したようであった。
◇
夜になっても良い風が吹いている。
しかし風は具体的な何かを運んでくれるわけではなく、ベランダから茫然と景色を見ていると少し恐くなる。夜なのに「コンニチハ」と言ってごまかせば、詰まらない慰めくらいになるだろうか。確かに匂いは運んでくれているようなのだが。
夜が明ければ、明日もきっと言葉が欲しくて、部屋から出て、言葉を待ち焦がれている。
正文館で立ち読みをしてからヴァンサンヌに行くと、ウェイターさんは「こんばんは」と言う。すぐ「こんにちは」と言い直して「店の中が暗いから時間が狂って、」と付け加えた。間違いではなさそうな時間帯ではあったが、空が完全に暗くなるまでにはまだ時間があった。
少し効き過ぎなくらいの冷房。その冷房の匂いが好きだったと改めて思い出す。空気が少しだけ冷えたカフェと、手元のコーヒーとの温度差。それが1年ぶりの初夏との挨拶みたいなもので。
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結局、今日の昼間みたいに何か事務的な仕事をしていればその時は忘れてしまうのだが、ふと手を止めた時、思い出して落ち着いていられなくなり、外に出て気分をごまかそうとして、あれこれと迷った挙げ句にコーヒーを啜りながら、やはり本を読むには照明が暗すぎることは疾うに分かっていて、開きかけた遠野物語は閉じておき、いつも通りここでは無印のB5ノートとプラチナのカーボンペンを出さざるを得ない。
と、句点を置かずに文字を打ち込んで、やはり今もごまかそうとしている。
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そのB5ノートにブラックインクの文字を詰め込む時、いつも外にいる。9年か10年近くこの作業をしているが、いつの間にか自分の部屋では書かなくなった。たぶん、書けなくなった。毎日書き続ける時もあったが、今ではひとりで外に出た時だけ、独り言のように書く。
外で書くのは、たぶん、待っているからだ、と今日ふと思った。
◆
馴染みのウェイターさんにはいつも話ばかりで実際に作品を見せたことはなかったので、写真が印刷されたものではあるけれど勘定の際にリーフレットを渡した。
そのウェイターさんは、僕がいつも何やらカリカリと書いていることを見知っているので、文章からあぶり出された山の姿を見て、僕のこのカフェでの行為の意味を理解したようであった。
◇
夜になっても良い風が吹いている。
しかし風は具体的な何かを運んでくれるわけではなく、ベランダから茫然と景色を見ていると少し恐くなる。夜なのに「コンニチハ」と言ってごまかせば、詰まらない慰めくらいになるだろうか。確かに匂いは運んでくれているようなのだが。
夜が明ければ、明日もきっと言葉が欲しくて、部屋から出て、言葉を待ち焦がれている。
